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来るままにしておきなさい

2019年5月5日 本日の宣教より
   マルコによる福音書10:13~16      牧師 左右田 理

 イエス様、弟子たち、親たち、子どもたち…本日聖書個所に登場する主な顔ぶれです。もし紙芝居にしたら、どのような構図で描かれるのでしょうか。この四者の立ち位置はどうなるでしょうか。私はその構図を思い描く上で、一つ気になっていることがあります。それはイエス様の“憤り”です。他福音書の平行記事と比べても、このような激しい描写はマルコによる福音書だけです。わが子がまだ幼いころ、親戚の犬二匹と遊んでいました。年少の犬がわが子を威嚇したのを見て年長の犬が吠えて叱りました。ところがわが子は年長の犬を怖がってしまったのです。もしイエス様の憤った顔と向き合ったら、幼子たちは親の背後に隠れてしまったのではないか…
 しかしイエス様が憤った後、子どもたちはイエス様に近寄りイエス様に手を置いてもらっています。そこで私は改めてイエス様の立ち位置を考えました。弟子たちに憤ったときにイエス様はすでに、子どもたちを背後にかくまっていたのではないでしょうか。憤ったときイエス様の立ち位置は弟子たちの中にあったわけではなく、弟子たちが親たちをたしなめるや否や、弟子たちのもとを離れ子どもたちのもとに駆け寄り、抱き寄せ、子どもたちの立ち位置から弟子たちに向き直って憤ったのではないでしょうか。
 ところで、まだ言葉の通じない幼子は、どのように善悪を学び始めるのでしょうか。多分に大人の顔色をうかがいながら、善悪や秩序を学ぶのではないでしょうか。子どもは敏感です。親の表情から親がたしなめられているのは自分たちのせいだとわかっています。幼子を抱える親も敏感です。子育ての社会的責任がひしひしと双肩にのしかかって押しつぶされていきます。躾と称する子どもの虐待なども、既存の秩序に適合できなかった親子がその関係性を内向的に暴走させてしまったケースも少なくないのではないでしょうか。その場合、それはその社会、その共同体が善悪判断、秩序をもってその親子を抑圧し、窒息させた可能性はないでしょうか。先ほどの紙芝居ではありませんが私には今、この聖書個所におけるイエス様の立ち位置が、善悪の事柄など蹴飛ばし、秩序の事柄など蹴散らして幼子のもとへまっしぐらに駆け寄り、幼子の隣人となるお姿として思い浮かんでくるのです。
 イエス様は幼子に“手を置き祝福するために”「わたしの所に来るままにしておきなさい」とおっしゃいました。すなわち躾けるためではなく、隣人となるために…「わたしの所に来るままにしておきなさい」という招きは、来るも来ないも相手の自由、ということを意味しているとは思います。相手の自由意思は尊重されなければなりませんから。しかし、そもそもイエス様がおっしゃった「わたしの所」とはどこなのでしょう。従来の秩序の中にとどまり相手と距離をとったところから招くという立ち位置なのでしょうか。それとも善悪、秩序の事柄を越え、まず相手の傍らに立ちつつ招くという立ち位置なのでしょうか。教会はキリストのからだとしてどこに立つのでしょうか。

by ohmiyabap | 2020-01-09 08:52 | 宣教