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仲間は非常に心を痛め

2020年1月26日 本日の宣教より 
    マタイによる福音書 18章21~35節 左右田 理
 本日の聖書個所に描かれた譬えには、一万タラントの借金を帳消しにしてもらったのに百デナリをゆるせなかった人物が登場します。100デナリを日給100日分と理解すると、一タラントは日給6,000日分、一万タラントは年棒として約164年分と見ることができます。単純計算で言うなら、自分がゆるされた分量の六十万分の一ですら他人をゆるせなかった生き様、その惨めさが描かれていることになります。十字架の主の犠牲、そのゆるしの大きさを説き明かしとして受けてきた方も少なくないと思います。何を隠そう、私もその一人です。
 けれども今、「自分は、どれくらい ゆるすことができるのか」という自問自答に閉じこもってしまって良いのか、という疑問もあります。「七の七十倍ゆるしなさい(22節)」が単に人を自信喪失させてしまうような事態は、主イエスの本意とは思えません。ここで説き明かされた譬えは、自らの“ゆるす”意欲を誇示する弟子に(21節)、再考を促すためだったのではないでしょうか。
 かつて日本バプテスト女性連合機関紙「世の光」で本日の聖書個所について、農村伝道神学校講師などをされている山口里子先生が、神は「僕の主人」ではなく「非常に心を痛めた仲間たち」の中にいる旨、記してくださっていました。歴史的教会には聖霊の交わりを、ゆるし合いの“できた”群れとして受けとめる傾向もあったように思います。しかし聖霊の交わりは本来、比べ合い、裁き合う世相に共に涙し、うめく群れ(ローマ8:15~28)なのではないでしょうか。だとしたら私たちはこの譬えを通して、「どれくらい ゆるすことができるのか」という内向きの問いから、「あらゆる命がどれほど豊かに、“すでに”ゆるされているか」という外向きの問いへ踏み出すことはできないでしょうか。(エペソ3:16~19)
 「七の七十倍ゆるしなさい(22節)」…これは神のゆるしの豊かさを体感する自由への招きではないでしょうか。良心の呵責という牢獄(34節)に囚われた者の隣人となり、共苦共生の交わりを通して十字架の栄光をより広く共に賛美していきましょう。

by ohmiyabap | 2020-01-26 07:00 | 宣教