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自分の身に起ころうとすること

2020年3月22日 本日の宣教より
        ヨハネによる福音書18章1~11節     左右田 理
 教会学校分級が恋しくて聖書教育の該当箇所から宣教ご奉仕することにしました。つい1ヶ月前までこのような動機で宣教の聖書個所を選ぶことなど思いも寄りませんでした。一寸先は闇、などという言葉もあります。しかし主イエスなら、よりにもよって弟子仲間との憩いの園(1節)が弟子の裏切りの現場、忌まわしい捕縛の舞台にされてしまうことも、予想ができていて辛くなかったということなのでしょうか。(4節) 子どもの頃は友だちなどと、明日のことがわかっていればラクなのに、などと好き勝手なことを言っていましたが、本日の聖書個所からは、わかっていても闇は闇なのではないか、と思ってしまいます。
 執筆が他の共観福音書(マタイ、マルコ、ルカ)より後代と言われているように、ヨハネによる福音書は出来事の事実性よりも出来事の解釈に重点を置いているようです。主イエスの捕縛理由として政治的背景も明記されています。(ヨハネ11:47~53) 当時、律法主義の難解さが侵略者であるローマ帝国からの干渉を妨げていたという政治的事情があったそうです。だとしたら律法主義からの解放の主は結果的に侵略者を手引きする危険人物と断定されたと考えられます。しかし捕縛者たちに対して主の言葉は、政治的駆け引きを越えた神々しさをもって迫ったのではないでしょうか。(6節)
 ヨハネによる福音書は、世の闇から目を背けていては救い主の光が見えないことを証しします。(ヨハネ1:5) それは政治の闇の中から輝いているけれど、しかし政治的駆け引きを越えて輝いている光でしょう。「わたしが、それである」(5,6,8節)…人の不安、失望、うめきは、究極的、最終的にはすべて神がお引き受けくださるという慰め主の宣言を絶えず共に受けましょう。(8節)
 天災人災問わず、闇(危険)とも冷静に向き合い、立ち向かうところに主の光があります。(4節) 人が災いを制圧できるということではなく、闇のただ中に主の助けを聴くため、照らし出される救いの道に目が開かれるためです。(11,8節) いかなる災いも十字架の主、捨て身の神の前には無力です。(6節) ハレルヤ!
by ohmiyabap | 2020-03-22 07:00 | 宣教