人気ブログランキング | 話題のタグを見る

命の主による義

2021年1月17日 本日の宣教より
   マタイによる福音書5章17~20節       左右田 理

 本日の聖書個所を読むとき、主イエス、また弟子たち(初代教会)の立ち位置が、当時のユダヤ教社会においてどのようなものであったかが浮き彫りにされているように思えます。安息日厳守、割礼主義などの常識に囚われない主イエスや初代教会の生き方は、律法の教えを破ろう、破棄しようとしていると受け取られ、支配者たちから警戒されました。しかし逆に、律法や預言者を成就させようとしているのだと、主イエスは訴えます。(17節)
 当時の指導者である律法学者やファリサイ人は民衆に律法の教えを“守らせる”ため、合否を厳しく問うことをしていました。しかし旧訳聖書の預言者は、律法を通して人を“生かす”働きを担っていました。(エゼキエル33:11) 主イエスや弟子たちの働きは、律法や預言者の成就、すなわち律法を通して人を生かすことでした。当時の社会で律法的に不合格とされていた取税人や遊女と呼ばれる人たちとの交わりを大切にされた主イエスは、たとえ天地が滅びゆく時が来ても、人を生かす律法の働きはことごとく全うされる、と預言してくださいました。(18節) 
 人が生かされる時、律法も生きます。律法をただ破棄するなら人の命をも破棄することになるでしょう。19節で主イエスは、律法を破棄するためではなく、人を生かす律法として、律法が生き生きと働けるようになるためにご自身が来たことを証しされているのではないでしょうか。ここで興味深いことは、律法を破る者は天国で最も小さいのであって、天国で不合格とされ排除されるとは言われていません。人を生かす律法の働きが、人のわざ、人の善悪を越えて全うされる希望が、ここにあります。
 ユダヤ社会の律法主義だけでなく、古今東西、多くの社会で義(正しさ)は合否優劣、ひいては排除の働きを担ってきました。しかしキリストの義は人を生かし、十字架の義は人の弱さ、欠けにこそ復活の主のみわざを満たします。(2コリント12:9~10) 思うに任せず、至らなさを痛感する日々に、十字架の義が満ち溢れます。

by ohmiyabap | 2021-01-17 07:00 | 宣教