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喜びが満ちあふれるため

本日の宣教より  2021年6月6日
       ヨハネの第一の手紙1章1~10節            左右田 理

 本日の聖書個所において、救いの光に満ちあふれるとは、喜びに満ちあふれることです。(1~4節) その喜びは“一緒にいられる喜び”、幼子の喜びのように思えます。手をつないだ瞬間に訪れる喜び、顔と顔を合わせた瞬間に訪れる喜び、その体験を思い起こす瞬間に訪れる喜びです。仏教の一期一会(一度の出会いが永遠)ではありませんが、幼子がその頭にイエス様から手を置いてもらった瞬間、いわゆる最後の晩餐でイエス様の切なる願いとしてパンと杯が弟子たちに手渡された瞬間、それらはすでに、光の交わりの中にいたのです。
 ある親は、生まれたばかりの赤子を抱いたその瞬間を永遠に忘れないだろうと言いました。神は、あらゆる命の誕生を受けとめてくださっている永遠の愛のお方です。この愛の輝きは十字架の光として人の闇を照らし出します。すると人は罪をごまかせなくなります。つながりが見えなくなって、ごまかそうとあがくようなときがあっても、つながりがまた照らし出されると、隠し事をしようとする思い、虚勢を張ろうとする思いから解放されます。頭に手を置かれた子どもは、また肩に手を置かれた人は、信頼して罪を告白し、信頼と平和に満ちていきます。(7~10節)
 初代教会時代には、特殊な知識や体験を得ることで神レベルの輝き、孤高を喜ぶグノーシス主義がありました。戦後日本も富(地位、名誉、財産)の優位性に喜びを見出そうとする学歴至上主義的価値観などが脚光を浴びてきました。しかしそれら獲得や蓄積の喜びは、虚勢、虚栄心の闇に人々を閉じ込め、魂の孤立、疑心暗鬼で人々を滅ぼそうとしてきたのではないでしょうか。十字架の光は、永遠の交わり、つながりの喜びへあらゆる命を取り戻そう、贖おうとして永遠に世を照らします。(5~6節)
 生きづらい世の中という声、うめきが巷にあふれています。あらためて今こそ、十字架の光に満ちた交わりを喜びましょう。その交わりに多くの人たちが立ち返るよう、共に祈りましょう。

by ohmiyabap | 2021-06-06 07:00 | 宣教