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神みずから尋ねて捜し出す

本日の宣教より  2021年9月5日
       エゼキエル書34章1~16節           左右田 理

 本日の聖書個所は、民の指導者に対する絶望が前面に出ています。エゼキエル書以外の旧約預言では、基本的に人としての指導者に悔い改めが求められ、人のリーダーシップに期待がかけられ続けていくことになります。救い主もモーセの模倣(レビ18:15)、ダビデ王の末裔(サムエル下7)など、人間として登場することになっています。しかしバビロン捕囚下でエゼキエルは、民の指導者に対する絶望を神の声として受け、神自らが民の指導者、保護者となってくださる預言を受けます。人のリーダーシップに対する絶望は、指導者、保護者なる神とのより鮮明な出会いとなりました。
 本日の聖書個所を読むと羊飼いイエスを思い浮かべます。(マタイ18:12~14、ルカ15:1~7、ヨハネ10:10~16) 神は人となられました。聖書の神は人の知恵や力に対する絶望を説きますが、人間不信や人間否定には悔い改めを求めます。(マタイ18:21~、ルカ17:4、コロサイ3:13) 神の人間肯定は、ゆるしの福音として実を結びます。
 本日の聖書個所について聖書教育(p.69)ではクリスマスなどに引用されるマリヤの賛歌(ルカ1:51~53)との共通性が指摘されています。“祇園精舎の鐘の声 諸行無常の響きあり 沙羅双樹の花の色 盛者必衰の理を現す 驕れる者久しからずただ春の夜の 夢の如し”(平家物語より) 世の富、繁栄は為政者のリーダーシップを蝕んでいくのでしょう。しかし彼らにも、貧しさをとおして神のゆるしと出会う希望があります。「…貧しい人たちは、さいわいだ。神の国はあなたがたのものである。…」(ルカ6:20) マリヤの賛歌もただ富める者の滅びを歌っているわけではありません。
 神の養いは、世の富める者も、貧しき者も十字架の主のもとで一つにされる希望です。十字架の主こそ復活の主として、今もあらゆる命を一つにすべく、生きて働いてくださっています。「…見よ、わたしは、わたしみずからわが羊を尋ねて、これを捜し出す。」(11節) 世がどれほど乱れ、衰えていこうとも、そのただ中に、あらゆる命が共に生きる永遠の平和が起こされます。

by ohmiyabap | 2021-09-05 07:00 | 宣教