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天の果てから 天の果てに

本日の宣教より  2021年10月3日
       詩篇19篇1~14節           左右田 理

「…日は花婿がその祝の部屋から出てくるように、また勇士が競い走るように、その道を喜び走る。…」(1~6節)本日の聖書個所では自然界の豊かさが描写されています。“自然”の語源は、人の手が加わっていない“状態”を指すそうです。

「主のおきては完全であって、魂を生きかえらせ、主のあかしは確かであって、無学な者を賢くする。」(7節)本日の聖書個所を読むたびに、昔耳にした言葉を思い起こします。“自然界はじつは天然界である”…いわゆる自然は自らを自らの手で然りとしている状態ではなく、じつは天によって、人知を越えた意志によって然りとされている存在だ、という趣旨だったと記憶しています。人が手を加える前からすでに、いわゆる自然は創造主に仕える被造物として、人類の命を支えています。(6節)

「だれが自分のあやまちを知ることができましようか。どうか、わたしを隠れたとがから解き放ってください。」(12節)人類は利潤追求のため環境破壊の道を突き進んできました。そして今も、人類が手を加えることを控えようとするのは、生態系が崩れると人が生きられないから、などと人間側の身勝手な理由が少なくありません。しかし天然はそうではない。いわゆる自然そのものが生き生きと躍動する姿が天から然りとされている、だから人の勝手にしてはならない…主のおきて、神の戒めです。

「わが岩、わがあがないぬしなる主よ、どうか、わたしの口の言葉と、心の思いがあなたの前に喜ばれますように。」(14節)人類もまた、その存在が然りとされているものとして、いわゆる自然界とも関わることがゆるされています。人が他の存在、その躍動を喜び楽しむために相手と関わろうとするとき主は喜び、その人は主の祝福のなかにあります。万物が主の手のわざとして見える目、そして喜び歌い賛美する心が万人に広がるよう、共に祈り求めていきましょう。


by ohmiyabap | 2021-10-03 07:00 | 宣教